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No.14 2013年7月 私のダーツ史 2

 私がダーツを始めた10年くらい前は、地方でのダーツのブームに火が点いた辺り。当時ダーツの中心地はダーツバーでした。今のように大きい店ではなく、1台か2台設置の店がメインでした。それに次いで多かったのがビリヤード場にダーツが置いてある店ですね。ダーツショップも関東で3軒程しかなかった、そんな頃の話です。

 前回、9ダーツをした綱嶋良信に会いにCASINO DRIVEへ2003年3月31日に行った事を書きました。彼に会いに行った目的は2つ。1つは自分にダーツを教えてもらう事。
 もう1つは長野に来てもらい、トップ選手を見た事の無い長野の仲間にダーツを見せて欲しいとお願い。後者の願いは早々に叶います。
 7月に長野市のお店でのハウストーナメントに来てもらいました。その後綱嶋氏には親しくさせていただくも、ダーツを教えてもらう事は無く…。
 今思えば彼がタイプ的にフォーム等を気にするのではなく、天性の入れ感を練習で磨いたのが分かるからフォーム等を他人に教えられないのが理解できるのですが、当時は才能が無いから教えてもらえないんじゃないかって悩みましたね。
 しかもダーツは教えてくれないのに、ダーツの仕入先と販売方法を教えてもらうんですよね。
 「酒井さんは長野県内の色々な所をまわってダーツをしているんだから、県内でダーツ用品を売って歩いて、そのお金で一緒にダーツを投げて長野県にダーツを広めていくんだよ」と言われて。
 その時に色々な仕入先を紹介してもらったのですが、今でも付き合いがあり一番お世話になったのが横浜のダーツショップNOB。
 店も持たない個人販売なのに、ダーツ用品の事を色々と教えていただきました。そんな流れで2003年9月から長野県でダーツ用品の無店舗販売を始める事に。
 当時はダーツショップなんて全国的にも少ないですし、ネットショップも少なく、ダーツ用品を置いているダーツバーも余り無くて意外と需要があったんですよね。連絡をもらえば県内各地に行きました。ダーツ用品を見てもらい、買ってもらったそのお金で投げて帰るような日々でしたね。まあ、買ってもらったよりも使ってきちゃうんだからマイナスなんですけれどね。
 昼間働いて深夜遅くまでダーツを投げて売り歩いているから、今思うと怖い事ですが記憶が無いのに目が覚めると高速道路のサービスエリアで寝ていたなんて事も多々有りました。

 DartsFan松本を利用してくれる人も多く、ダーツ販売をしながら各地に行ってダーツをしていたので、県内ではそれなりに有名にはなりました(県外でもですが)。
 地方雑誌のダーツ特集の時には声がかかり取材も何度か受けましたし、県内外のダーツマシーン業者から相談を受けた事も何度も有りました。綱嶋氏もそうですが県外から相談に来た業者さんは、今思えばディーラーの仕事の手伝い、集金やメインテナンス等の仕事を私に長野県内でやらせたかったんでしょうね。
 しかしその頃、私がダーツを始めたダーツバーのマスターがディーラーの仕事を始めたんですよ。仲間と争ってまで同じ仕事をする気は私には無かったので、遠回しにですがそこだけは断ってきたんです。
 今思うとダーツ業界の人間関係のこじれた話は、元々仲の良かった人達がライバル業者の関係になった所から始まっているのが多いんですよね。
ここだけは私の判断は間違っていなかったんじゃないかと思っています。

 こうして毎日県内を駆け回りながらダーツをしていたわけですが、そんな私の身にも重大な事がおこります。
2003年末くらいからイップスで悩む事に。今でしたらイップスは技術的な間違いから起こっているのが分かっているので、直す事もあまり難しくありませんが、当時はメンタルの問題で原因不明とされていました。
 練習では普通に投げられるのに、リーグ戦や大会になるとテイクバックしたあとに腕が出ないんですよ。出たとしても腕を振りすぎてアウトボードをするんです。他人にダーツを教えながらダーツを売っているのに、自分がみっともない姿を見せるわけです。本当に辛かったですね。
 まだプロは有りませんでしたが、プロが出来たらなりたいと思っていましたし、日本一の選手になれるようにと頑張ってもいました。そんな自分が思ったように投げられないわけですから、ダーツを辞めようか本当に悩みました。

 そんな状態に終止符をうつ為にある決心をします。2004年7月に開催されたメダリストのラスベガス大会に行く事に。
 この大会に行って自分の中で気持ちが晴れる事が無ければ、ダーツは辞めようと決心しました。出発の日までこの事は誰にも言わず、成田空港でダーツ仲間全員にその旨をメールで伝えました。一大決心です。

 この年D|1が発表され、翌年からダートワールド系のディーラーがメダリストのマシーンを扱わない事が決まっていて、ダートワールド系の関係者やプレイヤーが最後のラスベガス大会になると大勢参加していたんですよね。この時のラスベガス大会は日本人が200人以上参加していたと思います。
 大会中日本人と何度も対戦しましたし、最終日の最後の試合はホームにしていたNORTH GROVEの仲間とでした。4人で一緒に行ったのに、海外での最後の試合が仲間同士ってのは後味悪かったですね…。

 でも、それ以外の部分では非常に楽しかったですよ。Jonnyの試合を日本人みんなで応援したり、ポール・リムから大会中アドバイスをもらったり、もちろんラスベガスといえばカジノやショーも楽しみました。
 そうそう、この時本誌の編集長も取材でラスベガスに来ていたんですよね。写真も撮ってもらいお話も少ししたのですが、この時からのお付き合いなんですよ。

 そして私にとって一番大きかったのが最終日のウイナー側での試合。私のパートナーは女の子で、対戦相手は20歳代のアメリカ人チーム。日本人が200人も居ると自分の試合まで時間のある人は、知らない日本人が試合をしていると応援をしたりしていたんですよ。しかし、その試合の時には日本人がまわりに誰もいなくて2人ぼっち。しかも、相手が我々を馬鹿にした事を英語で言っているのがなんとなくわかったんですよね。
 最初の01を取られてクリケットが始まる前に、私のパートナーの女の子が「英語わからないけれど、あの2人悪口言っているよね?」と私に訊いてきました。
 なんて言おうか迷いましたが「やっぱり気づいた。差別的な言葉を使っていると思うんだよね。だったらこっちも日本語で言いたい事言いますか。どうせ奴らに日本語わからないんだし。」
 ここからはお互いにわからない言葉で罵り合いです。対戦相手を見ながら言うと怖いので、パートナーに向けて相手チームを罵倒しましたね。
 差別的な言葉もたくさん使ったのでここには内容は書けませんが、こういう時って言葉はわからなくても言っている内容は分かるんですよね。
 お互いに目の色を変えてピリピリしながら、銃をダーツに替えての戦争です。そんな状態だから後には引けず、お互いのチームが驚く程入るんですよね。私の10年以上のダーツ人生の中でも、こんなに怒りをおぼえながら負けられない想いでダーツをしたのは最初で最後でしょう。
 メダリストの大会は日本の大会と異なり、ラウンドのリミットが無いんですよ。20ラウンドを超えての大接戦でしたが結果はストレート負け。
 試合後に握手をする場面で、何故か相手と抱き合っていたんですよね。さっきまではお互いに罵り合っていたのに。相手チームの一人が抱き合った後に謝ってきたのですが、こっちも日本語で罵っていたからお互い様です。
最後は「グッドラック」と言って別れました。

 この時凄く「ダーツをやっていて良かったな」と思えたんですよね。これが戦争だったら私たちは死んでいますが、ダーツだと勝っても負けても言葉が通じなくても仲間になれる。
 ダーツを辞めようと悩んでいましたが、こんな素晴らしいダーツを長野県でもっと多くの人に広めていくのが自分の役割じゃないかと、帰りの飛行機の中で気づいたんですよね。成田空港に着き出発前に仲間に出したメールの返信を読み、空港内でまた仲間にメールをしました。
 「楽しかったー!自分の役割に気づきました。松本でダーツショップをやりたいと思います。」
 これがIMA-GINEの第一歩です。

 次回は店のオープンから清水浩明の事なんかを書きたいと思います。

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